蜘蛛の糸
有名な『蜘蛛の糸』という小説。
久しぶりに半夏生の間に読み返しました。
読んだことが無い人や忘れた人のためにサクッとあらすじを。
『極楽の蓮池のふちを散歩していたお釈迦様が池の底を覗くと、極楽の下にある地獄の様子が見えた。
そこには、殺人や放火の罪を犯した大泥棒の犍陀多という男がいた。
犍陀多が生前に行った唯一の良いこと、それは蜘蛛の命を救ったこと。
それを思い出したお釈迦様は犍陀多を救ってやろうと極楽から地獄の底へ蜘蛛の糸を垂れる。
地獄から逃れようと犍陀多は蜘蛛の糸をよじ登るが、ふと下を見ると、大勢の罪人たちが犍陀多と同じように蜘蛛の糸を登ってくることに気付いた。
糸の切れることを恐れた犍陀多が彼らに向かって、糸は自分だけのものであるから下りろと叫んだ途端、糸は切れて犍陀多は地獄の底へ落ちた』
なぜ、この本を読み返そうと思ったか?と言うと少し前に翠明湖の道路を呑気に渡っている亀を発見して交通量も多いので心配して道路を渡るの助けたのです。
その時にふと、脳裏を過ったのは「これは亀の恩返しが来るな!
しかし、翠明湖の竜宮城に招待されるのは怖いなぁ〜」というものだったから(笑)
この蜘蛛の糸で彼がどうするのが正解だったのか?
ポイントは彼の言った言葉。
『糸は自分だけのものであるから』という一文。
自分だけというエゴがお釈迦様からすると「アウト!」となった訳でしょうね?!
蜘蛛の糸は細いから大勢が登ろうとすると無理。
ならば、彼は糸を降りて他の罪人を先に上げて、自分は最後から登るべきだったのか?
しかし、蜘蛛を助けたのは犍陀多であって他の罪人はそれすらもしていないかもしれない。
また、先に上がった罪人が糸を切るかもしれない?
だって罪人なんだから。
実に正解は難しい!
これを論議してたら朝まで終わらないような気がします。
しかし、お釈迦様の目線から見ると犍陀多のエゴがダメだったってことですよね。
だったら、変に情けを掛けて試すようなことをされたお釈迦様も却って罪作りな気もしますが・・・
深い話です。
明日はこの話の続きを書きますね。
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