バチは

私の知ってる嫁姑の話。

姑サンは神仏も恐れ無い方だったそうです。
神仏への礼儀も無い。
人への礼節も無い。

それに対してお嫁サンは信心深い親に育てられたので、神仏への畏れもあった。
「お米を粗末にすると目が潰れる」
「神様や仏様に失礼なことをしたらバチが当たる」と教え育てられてきた。

そのお嫁サンからするとお姑サンの行為はバチあたりなことばかりだったそうです。

食べ物を捨てる。
お正月やお盆にも何もせずに常日頃から仏壇の扉は閉めたままで、押入代わり。
人への感謝も無く、貰ったモノにもケチばかり。

ここに書くのも憚る程の無尽蔵不徳ぶり。

しかし、そのお姑サンは周囲の人に「バチは太鼓に当たるもの。何をしてもバチなんか当たらない!」と豪語。

そして、バチの当たる気配も無く贅沢三昧で病院にお世話になることも無くピンピンコロリと逝かれた。

それを見て、「姑サンの神仏に対しても、人に対してもモノに対しても失礼ばかり。
あんな振る舞いや心持ちで生きていたら必ずバチが当たるはず」と思っていたお嫁サンの予想は残念ながら外れたそうです。

そして、神仏への畏敬の念を持ち、真面目に生きて、人へも感謝をされたお嫁サンや子供達には次々とバチが当たったのかと思うような厄難や不如意なことが押し寄せる。

どうして?
なぜ?と思われていると。
この話を聞いて1つ思い出したことがあります。

人間は意識の存在です。

バチなんか当たらないと信じて生きているお姑サンは何をやらかそうとバチは当たらないということ。

そして、真面目に生きてて、こんなことをしたらバチが当たる?!と思っているお嫁サンにはまるでバチが当たったようなことが起こる

毎日の日々は意識が生み出しているのだとしたら、生き様より意識の方が上回るのかもしれない。

例えば、不倫をして罪悪感に苛まれている人には悪いことが起こる。
しかし、自分はモテモテで感情に正直に生きるって素敵と輝いている人は略奪しようが妻子を泣かそうがバチなど当たらない。

最近は思います。
因果応報はそれを意識したり、申し訳無いと思った人にだけ来るものかもしれない。

何も悪いことなんてしてないわ!
私は人生を楽しんでいるだけ!
と生きているようなバチなんて言葉を知らない人にはバチは当たらないのかもしれないと。

全ては意識のままの人生が訪れるのかもしれない。

ならば、どうしたら良いか?
あんな生き方をしてバチが当たるよぉ!と思うような人とは離れる。


不公平な気がしますが…
確かに意識したとおりの現実が訪れているように思います。

それが摂理なのかもしれません。

真面目に育てられた人が急にそんなことが出来るはずも無いし。
優しい人が他人のことを気にせずに無茶が出来るものでも無い。

ならば、良い意識の環境に身を置くこと!
悶々とするような人とは一緒にいない。
心が穏やかにいられる場で過ごす

それに限ります。








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