『分』をわきまえる

生きるということは『分をわきまえる』ことだと思う。

大人は子供達に無責任に「夢を持て」「何でも叶う」「努力は裏切らない」とおめでたいことを言う。

野球選手に、サッカー選手に、アスリートに、ミュージシャンに、声優に、ダンサーに、今なら人気YouTuberに。

子供は夢を描く。
しかし、隣の子がサラリとやれることがいくら練習しても出来ない。
才能の無さを知る。
努力の限界を知る。

そして、上には上が居ると知る。
才能がある人が努力をすれば無敵。
夢や希望だけでは到底足元にも及ばないことを思い知らされる。

はじめから星の下が違う。

そして、色んなモノを諦め『夢』の軌道修正をしつつ、落としどころを探るようになる。

テレビやネットの世界ではスポットライトを浴びてる成功者の苦労話や挫折の話を観る。

成功者の挫折。
そこへすら辿り着け無かった子供達は自らの不甲斐なさを噛み締める。

そして、『自分の器』を知る。
自分はどれだけ努力をしたとしても、あんな才能やセンスは無い。

夢は所詮、夢なのだと悟る!

誰もが1番に慣れないことは当たり前。
『世界に1つだけの花』の歌詞にはどんな花も1つ1つ輝いていると歌われているが…

果たして自分は花だろうか?
単なる雑草で花も咲かないのかもしれないと壁にドーンと。
大人のキレイことに騙されたのか?

全員がトップではこの世は成り立たない。
上よりもピラミッドのように下の方が多いのだから、上に立ちスポットライトを浴びるのは僅かな人だけ。

自分はピラミッドを支える下側の人間だったのだ!と『』を知る。
そして、『自分の分』に合ったポジションを見つける。

しかし、それでも遅咲きということも有るかもしれない。
大器晩成かもしれない。

そう思って、あちこちのセミナーに行ってみたり、詐欺まがいの自己啓発セミナーや才能発掘系の商売に引っかかってしまいカモとなる。

そして、お金をつぎ込めばつぎ込む程にタダでは終われないと、焦りの中で冷静さを欠いて、さらなる深みへとハマる。

しかし、それも『』を知るまでは止められ無い!


そんな話をよく聞きます。
また、数命アフターでも相談を受けることもある。

それもこれも本人が『分をわきまえる』しかない。
卑下するのでも無い。
ネガティブになるのでも無い。

自分の才や冴を知る。
自分の努力の程を知る。
そして、自分が今世で学ぶべきことを知る。

そして、『自らの分をわきまえる』しか他ないのであろうと思う。

『分』の本来の言葉は『取り分』。
天から与えられた『取り分』

今のご時世はもっともっと上を!もっと高みを目指せ!!という風潮。
自己実現をしろ!!的な空気感ですが、人それぞれに『取り分』というものがある。

それを超えるを欲しがるのは傲慢だったり、身の丈に合っていない!

天から与えられていない『取り分』を取ろうとすると辛くなる。

身の丈に合っていないことを望むのは足に合っていない靴を履いて動き回ろうとするようなもの。
しんどくなりますよね。

努力をすることは良いことだけれど、『取り分』をわきまえると、生きることが楽になる。
らしく生きられる。

そう思います。

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